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「ずいずいずっころばし」の謎
この歌は、
ずいずいずっころばしごまみそずい
茶壷に追はれてとっぴんしゃん
抜けたらどんどこしょ
俵のねずみが米食ってちゅう
ちゅうちゅうちゅう
おっとさんが呼んでもおっかさんが呼んでも行きっこなしよ
井戸の周りでお茶わん欠いたの誰
ずいずいずっころばしごまみそずい
ちゃつぼにおはれてとっぴんしゃん
ぬけたらどんどこしょ
たはらのねずみがこめくってちゅう
ちゅうちゅうちゅう
おっとさんがよんでもおっかさんがよんでもいきっこなしよ
いどのまはりでおちゃわんかいたのだれ
というものですが、この文字数を数えると112文字となり、16×7文字で蛇行状に表示してみたところ、意味の通りそうな文章を見出しました。
ずいずいずつころばしごまみそずい
んやしんぴつとてれはおにぼつやち
ぬけたらどんどこしよたはらのねず
うゆちうゆちうゆちてつくめこがみ
ちゆうおつとさんがよんでもおつか
どいよしなこつきいもでんよがんさ
のまはりでおちやわんかいたのだれ

これを右上から読んでいきます。
いちずみかされずやねがつんだ
そつのこおがのみぼらめもよたまにはくでん
いごおたつんでかしはよてよもばれしちがい
わろてこゆきやことどうさつちつつ
ちとこおずぴどゆつなでいんらうおしり
ずしたちうよはいやけゆゆいまずんぬうちどの
一隅架されず屋根が突んだ
帥の公衙の見惚らめもよ たまには功田
移郷経つんでか 支派 仍て よもばれし痴がい
悪て此ゆ木屋こと どう察知 つつ
ちと高津人 斎つ名で印籠 御知り
図師達 紆余は嫌けゆ維摩順ぬ打殿
意味のわからない言葉を広辞苑で調べてみました。
「もよ」・・・感動の意を表す助詞。
「支派(しは)」・・・本派から分れた別派。支流。
「よも」・・・(下に打消の語を伴って) まさか。いくらなんでも。よもや。
「痴がい」・・・おろかなこと。おろかなさま。
「斎つ(ゆつ)」・・・いわい清めること。神聖なこと。清浄なこと。
以下に意味解釈を表示します。
瓦の一隅がかけ渡されていないので屋根が突き出ている
大宰府長官の官邸のなんとほれぼれしいことか
たまには功労者に田を与えてほしい
移郷されるまでに年月が経っているので 別派はそういうわけで
よもや おろかなさまが ばれない と思っていることだろう
悪事のせいでこの小屋にいるとは
他人にはどう察知できることか といいつつ
ちょっと高津の人は神聖な名で印籠を御知りで
図師達はのんびりすることを嫌がり
維摩会の順番にかかわらず打殿を測っている
移郷とは、奈良・平安時代、殺人犯で死刑を免ぜられた者が強制的に他郷に移住させられることをいいます。
高津(こうづ)は島根県西部にある地名です。島根県西部は石州瓦の産地でもあります。「石州」とは石見(いわみ)の国のことです。高津が“神聖な名”であるというのは、「こうづ」と読んだときに「神津」とも書けることを示唆していると考えています。
印籠は、江戸時代には薬入れとして用いられましたが、古くは、印や印肉を入れていたそうです。田畑を測る役人である図師によって朱肉が使われていたことを表わしていると考えています。
維摩会とは、大乗仏教の一つである維摩経を講読する会のことで、その際、寺院に布施する田地を維摩田というそうです。
打殿とは、布を打って光沢を出す仕事をする建物のことです。奈良・平安時代に布目瓦が多用されていたことを指していると考えています。
解釈した文章内容のように、隠謀に巻き込まれて没落した人を調べたところ、奈良時代末期の藤原浜成(ふじわらのはまなり 西暦724~790年)という人が該当することが分かりました。
この人は、藤原四家の中で最初に没落した京家・麻呂の子(不比等の孫)で、大宰帥の後、員外帥となります。しかし、娘の夫である氷上川継が謀反を起こしたため、参議・侍従を解任されます。また、この浜成という人は、日本最古の歌学書である『歌経標式(浜成式)』という著作を残しています。
『歌経標式』の中には浜成の作である次のような謎歌(表向きに歌っていることとは無関係な字句が隠され、その字句をつなげると一つの文句になるような歌)が記載されています。
ねずみのいへ よねつきふるひ きをきりて
ひききりいだす よつといふかそれ (33文字)
鼠の家(穴)米つきふるひ(粉)
木を伐りて引き切り出す(火)よつ(四)といふかそれ
浜成は、これが「あな恋し(穴粉火四)」という意味をもつと解説しています。「俵の鼠が米食って」の部分は、この歌のことを表していると考えています。
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「歌経標式」の虚実
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「ずいずいずっころばし」にみられる「蛇行法則」が何を意味するのかと考えを巡らせ、「蛇行法則」は「惑星の逆行」を表わすのではないかと推察しました。惑星の逆行とは、天空における惑星の見掛け上の位置が、他の恒星に対して逆の方向へ移動しているように見える現象のことです。
この「惑星の逆行」の時期に、歌に表された「事象」が起きたのではないかと推察しました。
実際に、氷上川継の乱の年代の惑星配置を、Stella Theater Proというプラネタリウムソフトを使って、時代をさかのぼって再現してみました。氷上川継の乱が起きたのは、天応二年閏正月十一日(西暦782年3月3日)ですが、同時期の西暦782年2月1日頃~4月15日頃(閏正月は2月21日~3月22日)に、火星がおとめ座(秋分点方向)からしし座にかけて逆行していることが判明しました。
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<「つつ」より前の“うら”の文章について>
藤原浜成が『歌経標式』を著したのは西暦772年、大宰帥や員外帥となったのは同781年、氷上川継の乱が起きたのは同782年のことでした。この時系列に着目します。
謎歌が「反乱を起こせ」という扇動的な内容であったことが“謀反である”とみなされ、『歌経標式』の発表後、年月が経ってから“謀反の罪”により浜成が“大宰府に移郷され”、その浜成作の謎歌に追従するように氷上川継の乱が起きたこと、これら一連のことが京家以外の別派により隠された、という主張が「ずいずいずっころばし」の“うら”の文章に示されていると考えています。
『続日本紀』には、藤原浜成が大宰帥に任ぜられた理由については記されていません。
また、同書には、藤原浜成の人となりの一つとして「術数に習熟していた」と書かれています。
術数・・・陰陽家・卜筮家などの暦数の術。
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「おっとさんがよんでもおっかさんがよんでもいきっこなしよ」の部分については中国の書物にその手掛かりを求めました。
中国の子供の教育について、朱子学の祖である朱熹が著した『童蒙須知』という書物の中では、話し方や歩き方の具体的な行いとして、
若父母長上有所喚召 卻當疾走而前 不可舒緩
もし父母や目上の人から呼ばれたら、
急いでその人の所へ行き、ゆっくりしてはいけません。
という教えが説かれています。
この「おっとさんがよんでもおっかさんがよんでもいきっこなしよ」が示す「目上の人に反すること」を「主君に反すること」と読み直せば、“うら”の文章が謀反人にまつわる出来事を示していることと合致します。
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ここで、大局的にものごとをとらえ、“うら”の文章が奈良から平安にかけての隠謀を表し、それになぞらえるように、“おもて”の歌詞が室町から江戸にかけての隠謀を表していると考えています。
その、室町時代から江戸時代にかけての陰謀とは、明智光秀の謀反のことです。
その題材として該当するのが、安土桃山時代の武将・細川忠興(号・三斎)です。忠興の妻は光秀の娘(ガラシヤ)ですが、前述した川継の妻が浜成の娘という関係に似ています。
その他に、題材として該当するのが、忠興の父・細川藤孝(号・幽斎)です。幽斎は、本能寺の変の際には光秀の誘いを断り、剃髪して忠興に家督を譲っています。この人は信長、秀吉、家康の三代に仕え、近世歌学の祖とされます。
歌詞の末尾の「井戸のまわりでお茶わん欠いたの誰」については、ひとつの手掛かりがあります。当時の武将の間で名器とされた朝鮮半島産の「井戸茶わん」について、秀吉に仕えていた幽斎が詠んだとされる歌があります。
筒井筒 五つに割れし 井戸茶わん
とがをば 我れが 負いにけらしな
「ずいずいずっころばし」には、この歌が示唆されていると考えています。
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<「つつ」以降の“うら”の文章について>
「印籠」に入れられた朱肉を示す「朱」という文字は、朱子学の祖である「朱熹」のことを表すこともあるそうです。
前半の「ちと高津人 斎つ名で印籠 御知り」の部分に該当するのが、戦国武将の大内義隆です。この人は石見を含む七国の守護であり、大宰大弐に任ぜられ、朝鮮から朱子学の書を手に入れます。また、治安の乱れた京都から多くの公家を迎えますが、領国経営が不安定となり、家臣の謀反を招いて自刃しました。
「のんびりすることを嫌がり」とは、『童蒙須知』の「ゆっくりしてはならない」に相当し、これは“おもて”や“うら”の他の部分とは真逆で「主君に従う」という意味になります。
維摩会は、興福寺で行われるものが最も有名です。その興福寺の衆徒の長を戦国時代に継いだのは筒井順慶という武将でした。「維摩順ぬ」とは、「筒井順慶ではない」という意味を表わしていることになります。
「打殿を測っている」とは、秀吉が行った「太閤検地」のことを表していると考えています。その太閤検地は本能寺の変と同じ時期に始まっています。
以上をつなげてみます。
大内義隆は主君に従うことを知っているけれども
図師たちは主君に従う筒井順慶ではない羽柴秀吉である
これは間接的に「羽柴秀吉は主君に叛いた」という意味を表わしていると考えています。
また、「打殿」が「布を打つための建物」であることから、「布を打つ」→「織物を打つ」→「織田を討つ」という図式が考えられます。
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“おもて”の歌詞の意味解釈を表示します。
ずいず いづつ ころばし こまみ そ ずい
ちゃつぼにおはれて とつ ひしや
ぬけたら どんど こしよ
たはらのねずみがこめくって
ちゆう ちゆう ちゆう ちゆう
おっとさんがよんでもおっかさんがよんでもいきっこなしよ
いどのまはりでおちゃわんかいたのだれ
随ず 井筒 転ばし 高麗見 其 随
茶壷に追はれて 突 ひしや
抜けたら どんど 来しよ
俵の鼠が米食って
知勇 知勇 知勇 知勇
おっとさんが呼んでもおっかさんが呼んでも行きっこ無しよ
井戸の周りでお茶わん欠いたの誰
従わぬ筒井順慶を味方に転じさせ、手に入れた高麗の物を見ている、その人に従うと、
茶会に追われ、突然の災難に遭うが、
過ぎたら小正月が来る。
鼠の家米つきふるいの歌を詠んだ藤原浜成は、
知恵と勇気をもち、
主君に叛いた。
筒井順慶から秀吉に渡った井戸茶わんが割れた歌を詠んだのは誰。
井戸茶わんの元の所有者は筒井順慶でした。山崎の戦で光秀の誘いに応じず、秀吉にも味方をしなかった順慶が、光秀側の劣勢を察知すると秀吉側に転じ、勝敗が決した後に、その日和見を秀吉にとがめられ、所領を保つために井戸茶わんを献上したという伝説があります。
解釈の要点は、「随(ずい)」という字(ことば)が「従う」という意味をもち、その「従う」「従わない」という意味を表わす言葉が、これまでに読み解いて来た“おもて”の歌詞や“うら”の文章の各所に配置されていることです。
「ずいずいづっころばし」という意味不明の言葉を「山崎の戦で従わぬ筒井順慶を羽柴秀吉が味方に転じさせた」と判ずることができました。
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「歌経標式」の虚実
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<参考図書>
・ 広辞苑 第二版 補訂版 岩波書店 1978年
・ 広辞苑 第五版 岩波書店 1998年
・ 世界大百科事典 第2版 日立デジタル平凡社 1998年
・ 日本の歴史 第4巻 律令国家 初版 著者:平川庄八 小学館 1974年
・ 続日本紀(下) 全現代語訳 著者:宇治谷孟 講談社学術文庫 1995年
・ 藤原浜成について―挫折の後半生― 著者:木本好信 甲子園短期大学紀要No.27 2009年
・ 歌経標式 注釈と研究 著者:沖森卓也・佐藤信・平沢竜介・矢嶋泉 桜楓社 1993年
・ 歌経標式 影印と注釈 著者:沖森卓也・佐藤信・平沢竜介・矢嶋泉 おうふう 2008年
・ 万葉の想い http://www6.airnet.ne.jp/manyo/ (2019年12月現在 ウェブサイト終了)
・ 益田市ホームページ https://www.city.masuda.lg.jp/
・ 【換暦】暦変換ツール https://maechan.net/kanreki/
・ KUSHIDA'S WEB SITE https://www1.odn.ne.jp/kushida/
・ Stella Theater Pro Version2.66 Toxsoft 2008年
・ 中国兵法 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3816/ (ジオシティーズは2019年3月31日に終了)
・ 歓迎来到大方广 http://www.dfg.cn/
・ Newton キトラ古墳で発見された古代の星図 1998年7月号
・ 郷土の伝説 著者:駒井保夫 1980年
・ 私立PDD図書館 http://pddlib.v.wol.ne.jp/
・ 細川幽斎・忠興のすべて 編者:米原正義 新人物往来社 2000年
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